2010年09月13日

異界-日本皇国奮戦記-外伝

 僕の名は松永浩一郎という。帝国海軍上等飛行兵であり、九七式艦上攻撃機の電信員をしていた。あの日、ミットウェー攻略作戦が不備に終わり、本土に帰還したらまるで違う世界にやってきていたのだった。誰に聞いても原因は不明で、山本長官以下この世界に現れたわれわれは日本皇国海軍軍人として生活する事となったのだった。

 見るのも聞くのもすべてが驚きだった。その驚きをどう表現していいのか今もってわからない。しかし、あれこれ考える暇もなく、教育が始まったのはよかったと思う。もしあそこで十分時間を与えられていたら、僕は発狂していたかもしれないからだ。とにかく、理解し、新たな技術を身につけ、一人前になることを求められたおかげで、思い悩むことはなかったからこそ、今の僕がいるのだ。

 最初に見せられたのがテレビというものだった。中津島にいながらにして、皇国全土のことが瞬時にしてわかるという。僕の時代では、娯楽というものは大してなかった。それに比べれば、この世界はすごいと思った。最初の一ヶ月は僕の精神状態が普通ではなかったため、脈絡のないことを書いていたが、落ち着いてかけるようになったのはそれ以降のことだった。

 僕らは皇国海軍軍人としての教育を最初から受けなおしたが、それには士官であろうが兵であろうが関係なく行われたと聞く。そして、僕ら艦載機乗りは恵まれていたかもしれない。なぜなら、数が少なかったからである。艦艇乗員は多く、いろいろな混乱があったと聞くが、僕ら艦載機乗りはそうでもなかった。士官と兵は別々であったが、それでも最初の一般教養教育は平等に受けられた。

 これは僕らにとって衝撃的なことばかりだった。テレビ放送は誰もが制限なく見られ、ラジオも制限なく聞くことができたのは驚きだった。僕は時間の許す限り、 性欲増強通販テレビやラジオを見たり聴い足りしていた。この世界の動きがわかるといわれたからである。しかし、同時に有害な情報も多いと聞いていたので、情報を丸呑みすることだけはしないように注意していた。

 一般教育を受けて五ヶ月、僕らは重大な決断を迫られることとなった。軍人として海軍に残るか退役して一般民として暮らすかである。むろん、僕らは海軍に残ることを選んだ。後で知ったが、徴用された民間船舶の乗員以外は退役するものはいなかったという。誰だって経験のない仕事をするよりも慣れた仕事をしたいと考えていたと思う。民間船舶の乗員にしても、海運会社勤務という職があるからこそ、軍に志願しなかっただけだろう。

 艦載機に限らず、航空機はすべてがジェット機になっており、僕らの乗っていた航空機は無用とされた。むろん、廃棄とするわけではなく、いろいろと転用されるということであったが、僕らにはそれを考えている余裕などなかったのだ。新しく配備予定の戦闘攻撃機は複座であり、対潜哨戒機や輸送機などは二人から一〇人乗り組むと聞かされていた。僕はパイロットではなかったからどうしようか迷ったのだが、適性検査という試験でパイロット候補とされたのだ。むろん、ほかの道を選ぶこともできたのだが、やはり、パイロットになりたかったので、それを選んだのである。

 艦載機パイロットの訓練とはいえ、担当するのは皇国海軍ではなく、皇国空軍であった。これには理由があり、海軍の初等練習機は並列複座配置であり、空軍が縦列複座配置であるためだった。これは海軍が装備している機体の多くが大型機であり、並列複座配置が主流であったからである。つまり、艦載機の多くが縦列複座になるため、海軍では教育できなかったということにある。このときまで、海軍は航空母艦を有していなかったことも原因だと思われた。

 今後は別として、この当時は空軍が担当することとされていたため、座学は海軍の教官で実技は空軍の教官であり、多少の混乱があったのは事実である。しかし、僕らにとってはそんなことにかまってはいられなかったのも事実であった。とにかく、早く一人前に成ることに必死だったのである。

 操縦経験のなかった僕ら(他にも三〇〇人近くいた)は、座学からはじめ、T-3初等練習機による飛行から始められた。むろん、操縦経験のあるパイロットはこの課程を飛び越えて早くもジェット機に乗っていたと思う。ただ、僕はこの世界で始めて操縦経験をしたこと、単独飛行をしたことが彼らに比べて良い点だったと思う。なぜなら、妙な癖がつくことなく、真っ白な状態でジェット機に乗れたからである。三ヶ月後、僕らは中等課程に移ることとなった。

 僕らの目の前にあるのは、T-4中等練習機であった。移転前から配備されており、これまで使用されててきたジェット練習機であった。もちろん、僕らと違って伝統ある大日本帝国海軍航空機パイロットであり、それなりの実戦経験があった人は、レシプロ機による初等練習課程は考慮されていなかった。座学ではいろいろと叩き込まれているが、それは何も僕らに限ったことではない。こと座学に関して言えば、空母機動部隊のパイロットすべて、否、下駄履き(水上機)乗りを含むすべてが同じ位置に立っていた。あの板谷茂少佐や村田少佐などそうそうたる人たちがいるのである。

 T-4中等練習機の諸元は次のようになっていた。全幅九.九四m、全長一三m、全高四.六m、乗員二名、自重三七九〇kg、全備重量七五〇○kg、発動機石川島播磨重工F3-IHI-30ターボファン推力一六六〇kg×二、武装なし、最大速力M○.九、航続距離一三○○km(機体内燃料)、一六七〇km(増槽使用)、上昇限度一万五二四〇mというものであった。座学によれば、練習機としては優れているが、戦闘機としての使用は考慮されていないとのことであった。僕の知る<赤とんぼ>と同じようなものだろう。

 初めて乗ったときはその加速感に驚いたものだ。九七式、T-3初等練習機とはまるっきり異なるものだった。操縦特性もかなりデリケートなものだといわざるを得ない。零戦や九九式艦爆、九七式艦攻のパイロットたちが操縦に苦労しているのが噂として聞こえてくる。元の僕の乗機のパイロットの三沢一郎飛曹長も難しいと話していた。僕はそう難しいとは思わなかったが、やはり癖がついているとなかなか直らないらしい。

 しかし、中には簡単に乗り越えてしまう人もいると聞いた。村田重治少佐や板谷茂少佐、友永丈市大尉らがそうらしい。なぜなら、彼らは最も早く単独飛行を行っていたからである。幸いにして僕には妙な癖はついておらず、目標の二ヶ月で単独飛行にこぎつけることができた。僕の同期の多くも三ヶ月を経ずして単独飛行にこぎつけている。

 もっとも、単独飛行ができるのと戦闘行動ができるのはまた別の話であって、帝国海軍時代ではここからが個人の精進の差が出るといわれていたらしい。らしい、というのは僕は操縦課程を経験していないからであり、三沢飛曹長に聞いた話であるからだ。

 パイロット約八〇〇人に対してT-4練習機は二〇〇機、毎日飛べるわけではなく、四日に一度ということになり、その間は座学で埋まることとなった。もちろんそれだけではなく、いろいろな実技教練もあった。教官によれば、通常なら二年以上かけて行うところを僕らの場合、速習課程で一年以内の終了を目指しており、各地に分散されている練習機の五割がここ中津島に集められているという。

 もうひとつ、面白かったのがシミュレーターという機械があった。これは地上において、T-4練習機の操縦訓練が行えるものであった。ものすごい機械だと思うが、多くのパイロットからは不評であったようだ。その理由は風が感じられない、ということにあったようだ。いくら精巧に作ってあっても、やはり実機とは異なるらしい。ここでいう風とは、どういう意味なのか僕にはわからないし、僕自身はそう気にはならなかった。

 僕らの課程は戦闘機操縦課程であったが、他にもいくつかの操縦課程があった。輸送機操縦課程、対潜哨戒機操縦課程、早期警戒管制機操縦課程、ヘリコプター操縦課程などである。僕の飛行課程同期で半数が中等課程に移る前にそちらに流れていた。やはり適正の問題もあって、必ずしも戦闘機操縦課程にとどまれるわけではないらしい。特に、これまでのレシプロ機からジェット機に変わることで、零戦乗りや九九式艦爆、九七式艦攻のパイロットからも脱落者が出たという。

 中等課程に移って五ヶ月、飛行課程が始まってから八ヶ月、ついに主力機であるF/A-5戦闘攻撃機<流星>に乗ることとなった。むろん、先行量産型であるため、機数は二〇機と少ないが、配備されてきたのである。そして、これからが本当の意味での艦載機乗りとしての訓練が始まったのである。しかも、僕らにとっては最重要とされる訓練、それが母艦からの発艦および着艦訓練であった。とはいえ、皇国海軍には艦載機乗りはおらず、僕らの側にはジェット機による経験者はいなかった。結局、元の艦載機パイロットが理論によって行うこととなった。

 F/A-5戦闘攻撃機<流星>その諸元は次のようになっていた。全幅一一m、全長一六m、全高五m、乗員二名、自重一万○六八○kg、全備重量二万○七六○kg、発動機石川島播磨重工F-5-IHI-80ターボファン推力七二○○kg×二、武装二○mmバルカン砲一基(弾数五六〇発)、空対空誘導弾×四、ASM-2対艦誘導弾×四など最大五七〇〇kgまで搭載可能、中絶薬最大速力M二.○、航続距離四一○○km(増槽使用)、戦闘行動半径八五○km、上昇限度一万八〇〇〇mというものであった。

 これをみても、これまでのレシプロ機とは雲泥の差があった。まずもって、着艦速度、地上の滑走路でもそうであるが、レシプロ機とは違いすぎるのである。しかし、案ずるより産むが安しという諺があるように、ジェット機に変わっても離着艦の経験がものをいったようで、多くのパイロットが問題なくこなしていったのである。もっとも、僕ら自から操縦して着艦の経験のない、下駄履き乗りも含めて、にとっては生半可なものではなかったといえる。誰が言ったのはかは知らないが、正しく、制御された墜落そのものであった。


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Posted by 本能 at 18:13 │小説

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